東京高等裁判所 昭和30年(う)2184号 判決
被告人 一柳健二
〔抄 録〕
よつて次のとおり考察をする。
原審は、本件公訴事実中、被告人が、
第一、丸山某と共謀の上昭和二十八年六月四日午後七時三十分頃川崎市戸手町二丁目四十三番地雑貨商関口太一郎方店舗において、店番をしていた同人の長女紀美子に対し所携のナイフを突きつけ「静かにしろ」と申向けて脅迫しその反抗を抑圧した上右太一郎所有の現金約二千円を強取し
第二、同年九月二十五日午前十時三十分頃同町二丁目五十三番地菓子商関根新太郎方店舗において店員菊池芳乃に対し所携のナイフを突き付け「騒ぐとこれだぞ、金を出せ」等と申向けて脅迫し、その反抗を抑圧した上右関根所有に係る現金約百七拾円及びパン二個を強取し
第三、昭和二十九年三月十五日午後八時三十分頃同市堀川町五百八十番地明治製糖株式会社倉庫裏空地に青木次子を連れ込み同所において接吻を装つて同女の舌端を咬み切り更に同女の顏面を足蹴にする等の暴行を加え、その反抗を抑圧した上同女所有の現金約四千円在中のハンドバツク一個を強取し、右暴行によつて同女に対し全治約二十日間を要する舌咬傷、右眼部打撲傷等の傷害を負わせ
たものであるとの点につき、無罪を言い渡しているのであるが、被告人は、これら事実の全般について、司法警察員及び検察官に対して自白している。そこで先づこれが自白の経過につき検討するのに、本件記録(殊に原審第七回公判調書中の被告人の供述記載)及び原審及び当審証人若生敬、同鈴木正雄(いずれも川崎警察署警察官)並びに右自供当時同署の留置場に被告人と共に同房していた原審証人和田正栄の各証言を総合するときは、当初、被告人は、本件公訴事実中、永井栄治郎方の窃盗事実のみを自供していたのであるが、その後約一ケ月経つた昭和二十九年九月十七日勾留状の執行を受け、右留置場に未決勾留中、同房者の和田正栄等に対し、右自供の犯罪のほかに余罪ある旨を洩らしたところ、その余罪につき同房者達から或いは、初犯だから隠しておいた方が好いとか、或いは全部自白して綺麗になつた方が好い等と言われ、あれこれ考えた末、結局自供することに意を決したところ被告人に余罪ある旨の同房者からの聞き込みによつて同年十月十八日頃から取調を始めた若生刑事等に前掲冒頭の事実を原審以来その事実を争わない爾余の窃盗事実と共に任意自供するに至つたものであることが窺われる。(その自白が、拷問又は脅迫等の強制手段によつて不任意に為されたものであることは記録上確認するに由がないと共に、自白の右動機、縁由に照らし、その自白をもつて警察官に対する単なる迎合によるものということもできない。)されば、右自白の経過に徴するときは、司法警察員が各犯行現場の実況を見分するに当り、被告人においてその各現場を任意指示したとの各関係人の証言も決して信用のできないものではない。果して然らば、被告人の右自白のみによるときは、前掲公訴にかかる各事実はすべて被告人の所為によるものと言わざるを得ないところであるが、これらの事実中、関口太一郎方における強盗の事実(第一の事実)及び青木次子に対する強盗傷人の事実(第三の事実)については、その各直接の被害者達の証言に徴するときは少くとも当審において見る被告人の人相中最も特徴とすべき目付の点において各証言に相通ずるものがあつて事実の認定上特に留意すべきものなしとはしないが、さて、被告人を示されて見ると、関口紀美子は当時齢十才の幼女であり、また、青木次子は、兇行の異状に戸惑いしたためによるものか、いずれも、その犯人たることを確認せず、それかといつて他に被告人の自白を補強すべき物的証拠も存在しないので、これらの事実につき、被告人を有罪とするには、なお証明充分ならざるものがあると言わなければならないから、原審が、これらの事実につき被告人を無罪としたことは正当である。ただ然し、関根新太郎方における強盗事実については、その直接の被害者であつて、極く近距離の正面から目撃した店員菊池芳乃は、被告人を示されて終始犯人が被告人である旨証言し、殊に、当審における同証人の証言時における確信に充ちた言動に徴するときは、被告人の前示自白の経過及びその内容、並びに同証人の証言内容等をも総合し、特に他の物的証拠に俟つまでもなく、被告人がその犯人たることを否定し得べくもない。尤も菊池芳乃は、当時犯人は、紺のレインコートを着用して、髪はボサボサにしていた旨供述しているが、被告人の当時の勤務先の主人や被告人方家族達は、被告人は平素レインコートを着たことなく、また、髪は常に油をつけて綺麗にしていた趣旨の証言をしていてその間くいちがいがあるけれども、仮にその際、たまたま、レインコートを着用していたとか、或いは、髪が平素と異りボサボサであつたとするも、人間毎日の生活において或機会や事情から、たとえ本来所有しない衣類でもたまたまこれを着用することもあろうし、また、後日犯罪の疑を受けた際における弁疏に供するため、特に、常例とは異る右の様な服装や風体に出づる場合もあるであろうことに思いを致すときは、右くいちがいの事実をもつて直ちに右犯行が被告人の所為によるものでないとすることはできない。また、原審判決には、証人関根新太郎が被告人を示されて、そんなに肥つていなかつた旨及び犯人は三十一、二才位であつた旨述べた点を捉えて、証人菊池芳乃の証言の証明力を否定しているが当審に見る被告人は、三十才以上に見える場合なしとしないばかりでなく、本件犯行時同証人の目撃した際は、事実或いはもつと肥つていたかも知れないし、それに関根新太郎は当時齢七十才の老人であつて、目が悪く、而も、犯人から可なり離れた座敷に在つて犯人の斜横後ろないしは背後から犯人を目撃したのであつてその見たところに狂がないとは決して言い得ないところでもあるから同人の右証言をもつて、敢て、菊池芳乃の証言より信用すべきものがあるとして被告人の犯行たることを否定すべきよすがとするを得ない。
されば、以上縷述するところにより、原審が、前示冒頭掲記の第二の事実につき証明充分ならずとして、被告人を無罪としたことはとりもなおさず、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認の過誤を冒したものというのほかはない。
(三宅 河原 遠藤)